縮図
マルクス曰く、この世は階級による闘争劇なのだと。
貧者、富者、持たざる者が、持てる者へと挑むのだ。
しかし、考えてもみよう。
何を根拠に、持たざると言うのか、持てると言うのか。
根拠は、何だろう?
ありとあらゆる存在を侮蔑する者が、実は、最底辺の存在であったり。
つまりは、社会の縮図というものの方角を、正しく考えるべきか、否か。
あるいは、そもそも、世界とは何か。
夢の世界においての、最上位、最底辺、あるにはあるだろう。
経済世界においての、中間層、下流層。
趣味世界においての、上位層、下位層。
もしくは、男の世界なのか、女の世界なのか。
ある日、世界が変わった、世界が終わった。
その転換点を認識するか否かで、「理論的には」と修正が必要となる。
修正主義というのも常識なのだ。
しかし、それが、一周回っての「釣り」なのだというのは、どこの世界か。
可愛い子だから、浪費するだろう。
可愛い子だから、友達を増やそうとするだろう。
可愛い子だから、喧嘩とは縁遠いようで、巻き込まれがちかもしれない。
可愛い子だから、スケベに人気になるはずだ。
可愛い子だから、裏表の管理、察知が得意かもしれない。
可愛い子だから、よくわからなくて当然なのだ。黙って観察させろ。
「どの角度から観察するべきか」などという拘りは、ある種の悪魔的見解。
知るべきでないことを知って偉そうにするのは、悪魔の特権。
昨今の腐敗した資本主義気質からすれば、算数こそ悪魔の道具なのでは?
財宝の為なら、人命など二の次なのだろうか。
矜持の為なら、治療など二の次なのだろうか。
あるいは、貝殻こそが未だに財宝であったり、石版が通貨だったり、青銅器が通用していたり、仮想通貨だけが必要な場所だったり、銀貨が本位の政府があったり。
大事なのは、家族なのか、宗教なのか、騎士道なのか、エリートなのか、証人なのか、あるいは、学者の金言なのか。